『空海の風景』を読んで
『空海の風景』を読んで
(以下の内容はLINEのタイムラインに投稿して、(全く)反響が無かった内容を再編集し投稿した。)
初めに
ひさびさの読書感想文だ。
前回の『アンナ・カレーニナ』以来の、約一年半振りである。その間に何も読んで無かった訳では無い。
書籍では『最後の将軍
-徳川慶喜-』、漫画では『軍鶏』『トライガン(マキシマム)』『頭文字D』等、色々と読んでいた。
しかし一番読んだのは『空海の風景』だろう。
司馬遼太郎作品であるのに読むのに難渋した為、四度も読んだ。
ざっと作品を説明すると、弘法大師・空海の故郷から始まり、生い立ち、幼年期、青年期、唐に渡り帰国後の最澄との衝突・軋轢等が描かれている。
仏教の用語をなるべく使わずに書いた、と後書にある様に、別に仏教に詳しく無くても読める作品だ。
しかし、四度も読んでもハッキリとイメージ出来なかった。
作品世界の可視化
私は司馬好きではあるが別に文学好きでは無いので的を射ているか不安だが、司馬作品の特徴として挙げられるのは、小説舞台の可視化だ。
かつて何かの作品の後書でも見たし、人からも聞いた事が有るが、司馬さんが新たに新聞連載を始める前に神田古書街から特定の時代・ジャンルの本が消える為、彼が次にどういう作品を書くか大体予想が付いたそうだ。
なるべく史実に沿った作品を書く、と言うのも目的に有るだろうが、その時代、その地域、その世界を著者自身の頭の中にほぼ完璧に再現する為では無いだろうか。
そうでなければ、特に文学好きなわけでも無い私のような人間が好んで読まないし、読めるべくも無い。
メジャーどころだと元亀・天正の頃か幕末・維新の頃が舞台になる事が多いが、当時の世界が細かく描かれている為にイメージしやすいのだ。
その、読み易いハズの司馬作品であるのに、四度も読んだ。
前回の『アンナ・カレーニナ』と同じく、知らない世界だったからだ。
要するに、奈良時代や仏教や唐についての知識や理解が不足していたワケだ。
その為最初は、詰まっては検索して、再び読み進めて、の繰り返しだった。
四六駢儷体、桓武帝、パーリ語、氏と姓(うじとかばね)、その他多数を検索しながら読み進めた。
戦国期や幕末期の作品の場合は有る程度の知識が既に有る為、初読の場合でも何となく理解出来る。
しかし弘法大師・空海については、真言宗の開祖で字が上手い人、くらいの認識でしか無かったし、奈良時代を扱った文学・映像作品は経験がほぼ無かった為、全くイメージ出来なかったのだ。
格好良い主人公
又、司馬作品の別の特徴としては、主人公が無闇矢鱈と格好良い所だ。
『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』の様な司馬作品を代表する長編は少し違うようで、『国盗り物語』や『世に棲む日日』のような途中で主人公が変わるタイプの作品でもない。
『峠』や『燃えよ剣』辺りの短編は良い例だ。(短編と言えるほど短くは無いが。)
惚れ抜いた主人公をなるべく史実に寄せた上で、格好良く描いているのでは無かろうか。
「司馬史観」等と言われるが、彼は史家ではなく小説家だ。
小説の詳しい定義は知らないが、小説で有る以上、創作で良いのだ。
上記作品の全ては、大筋として史実に沿っているが、作者の創作部分も多数有る。
で無ければ、あそこまで河井継之助や土方歳三を格好良く描け無いだろう。
いつもと違う作風
今作『空海の風景』では、そういった手法が無い。
○○と考えても許されるだろう、××と言ったに違いない、等の表現が余りにも多く有る。
知り得ない、分からない所は創作する事が許されるハズの小説で有るのに、らしく無い描き方だ。
理由として考えられるのは、上に挙げた他の作品の登場人物と違い、空海は宗教指導者で有る為、では無かろうか。
司馬さんの経歴も有って仏教関係の知人も多いようで、勝手な空海像を作るワケには行かなかったし(対身内)、そもそも宗教指導者として後世千二百年間影響を与え続けてる(対世間)、要するに影響範囲が半端無い。
うっかり独善的にイメージを固めてしまうと、それが好意的であろうと無かろうと問題を引き起こすわけだ。
だから史実と推論で主人公を構築するスタイルに成ったのだろう。
又、後書に有る様に『坂の上の雲』執筆準備中に空海全集を読んでいた為、明治期と言う具体的世界に対する奈良期の密教と言う形而上的世界と言う反動の結果なのかも知れない。
巨大な人物
作中にも有るが、千年以上前の人物を捉えるのは、平易な事ではない。
しかし当時としても歴史上の人物としても著作/書簡が多く、登場する作品も多い人物でもある。
つまり奈良期の人物としては例外的と言えるほど書き易い人物だったはずだ。
しかし私が最初に読み終わった時は、空海をイメージ出来なかった。
何度も読んでいるうちに何となくイメージ出来たが、しっくり来ない。
何故か。
上記の知識不足という点以外に考えられるのは、司馬作品のメジャーなタイトルと違い、扱ってるのが密教という所だ。
インド思想が仏教に、釈迦を経て雑密が純密、中国を経て空海が日本へ。
最後が8~9世紀だが、それまでの経緯も合わせると、二千年くらいの時の開きがある。
地域も違うし、本当の別世界の話だ。
つまり、空海その人は一個人だが、中に入ってるのは東アジアの一部で興った思想や宗教の千年分くらいで、生きていたのは千二百年くらい前と言う事になる。
そんな規格外の人間は、イメージ出来なくて当然だろう。
しかし翻って考えてみれば、現代日本にも当時から受け継がれている物も多く有る。
シャーマニズムから発展した神道と天皇制。
社会を規定している儒教。
死者の鎮魂の為の仏教。
陰陽のみ入って廃れた道教。
恐らく、欧米人と比べてイメージし易い環境に生きているハズだから、もうちょっと頑張ってみたい。
終わりに
空海の見た風景か、空海の居る風景か。どちらか片方でも良い。
見てみたい。
恐らく司馬さんには見えていただろう。
今、五度目の通読中だ。
しかしイメージを固める事は出来ないだろう。
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